ゆめのはなし





はじめに思ったのは「まずい」ってことだった。
スマイレージは憂佳でもってる。それがわたしにとっての紛れもない事実だった。
憂佳がいなくなったらきっと憂佳のファンはほとんど残らない。
同情でわたしやあやちょに流れる人も僅かにはいるかもしれないけどきっと本当に僅かだ。
憂佳がいなくなる。スマイレージから。
どんなに努力しても手に入らないものを、天性の何かを憂佳は持ってた。
わたしが欲しくて欲しくてたまらなかったもの。たくさんの人が惹かれるもの。
それを持った憂佳が、いなくなる。
何てずるいんだろう。




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そんな風に思ったのも今は昔で、憂佳が卒業してからもう一年と少し経つ。紆余曲折ありながらも何とか6人でやってきた。憂佳の穴は大きかった。みんなで一生懸命うめた紗季のぶんまで改めて圧し掛かったし、『初期メンバーが半分になった』って事実は耐え難かった。それでも半分は残ったから。あやちょがいたからここまでこれた。それはもちろん二期メンバーのおかげでもあって、つまり今わたしの隣でのほほんと笑ってるかななんも例外じゃない。福田さん何かものまねしてくださいよぉ、なんてせがむから適当に蛇口の真似をしておいた。それだけのことであまりにも楽しそうに笑ってくれるから、わたしも気分が良くなってものまね大会に突入する。げらげらと笑い声が響く楽屋の戸が開いた。がちゃり。「おはようございまーす」「前田さんおはようございますぅ」「おはよー」わたしもおざなりな挨拶を返したあと次のものまねのポーズに入る。「花音なにやってんの」「マイクスタンド」「…意味わかんない」わかんなくて結構、と思った瞬間にようやく違和感に気付く。あれ?どうして憂佳がいるんだろう。ついさっきまで憂佳のこと考えたりなんてしてたから呼び寄せちゃったのかな。なんて、あやちょを見ると普通に本を読んでる。むしろ誰ひとり違和感なんて感じていませんぐらいの空気で憂佳を含めた6人が過ごしてる。なにこれ。どっきり?どこかにカメラがあったり、そんなわけない。あったとして何の企画?ありえない。憂佳どうしているの。わたしが聞くと憂佳はなにそれひっどい、と顔を歪めた。その顔のほうがひどいよと思ったけど言わないでおく。もう一度あやちょを見るけど本に夢中で顔を上げる気配すら無い。これは本格的などっきりかもしれない。いや、むしろこれまでが壮大などっきりで、憂佳はずっとスマイレージだったのかも。なんだ、そうだったんだ。これでまた───


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目が覚めた。
視界に映るのは紫の壁紙、わたしの部屋。
憂佳のいる楽屋は紛れもなく夢の世界だった。
わたしは少しだけ顔を上げて時間を確認してから、思いきり枕に頭を埋めた。
そんなわけ、ないじゃん。
きっと昨日のフィッティングでピンクの衣装なんて着たからだ。
少し思い出しただけ。深い意味なんて無い。
起き上がろうと意識は急かすけど、身体がだるくて言うことを聞かない。
胸の奥が渦を捲くみたいにぐるぐるする。
……そんなわけないのに。




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写真集出るんだって。妙に明るい声で憂佳が言うから、だれのって聞き返した。かのんの。うそ。しらないの?そういえばそうだったかも。いいな、見せてよ。やーだ。見せてよー。しょうがないなあって溜息吐くふりして首を傾げた。憂佳の手が差し出されて、わたしはクマスポを渡した。ぺらぺらとページを捲る憂佳の指先が気になった。白くて、あやちょほどじゃないけど細い指。わたしのと取って替えたらどうだろう。少し大きくて似合わないかもしれない。身体ごと替えたらどうだろう。この顔に憂佳のきれいな身体はきっと合わない。なんだ、何もかもだめなんだ。腹が立って写真集を取り上げた。表紙で微笑む憂佳の可愛らしさが憎たらしくて投げ捨てた。憂佳は固まってる。ああわたし何てことしてしまったんだろうって泣きそうになってきて、投げ捨てた写真集を探すけどどこにも無い。いやだ。困る。これじゃ憂佳に謝れない。謝れない?何を謝る必要があるんだろう。どうしてだっけ。だって憂佳は怒ってない。ほら、わたしの手を握って、何か嬉しそうな顔して。「憂佳のこと好きでしょ?」「…ううん」「うそだぁ。だって、かのん────」


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朝だった。
携帯のアラームがけたたましく鳴るのを慌てて止めた。
また憂佳の夢だ。2日連続なんて、気が滅入る。
べつに夢で会いたくないってわけじゃないけど、
どうしてこんなに、何ていうか、悲しくなるんだろう。
そういえば最後に憂佳と連絡とったのはいつだったかな。
確認しようとホームボタンを押して、やっぱり画面を落とす。
溜息が出そうになるのを抑えて、できるだけ静かに息を吐いた。




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「憂佳ちゃん少し遅れるって。」あやちょに言われてわたしはん、と小さく頷いた。また憂佳だ。また?って何がだっけ。思い出せなくてもやもやしたまま先生の集合がかかる。きゅっきゅきゅっ、レッスンシューズと床の擦れる音が跳ねる。じゃあドットビキニから。はい!お願いします!全員で声を上げた瞬間照明が落ちる。薄暗いステージはやや狭い。いつの間にか憂佳がいて、あやちょもたけちゃんもめいめいもりなぷーもかななんもみんないて、なぜかりなぷーの髪が前みたいに伸びてる。ドットビキニか、久しぶりかも。憂佳踊れるのかな。イントロが始まる。スキちゃんだ。まっすぐに挙げた両手を叩く。横目で確認すると憂佳は完璧に踊ってる。くるくると回りながら縦一列に集まる。なんだ、憂佳踊れるんだ。いつの間に。もうすぐ次の好き純。次も憂佳は踊れるのかな。イントロと同時に身体が動く。まっすぐに伸ばした両手を胸の前で振りながらステップで移動する。これは夢見るだ。さっきと同じように憂佳もちゃんと踊ってる。確かにみんなと同じように。踊りながらわたしは何だか涙が出てきて止まらなくなった。次から次へと溢れてくる。だってドットビキニも好き純も流れない。もう、憂佳と新しい曲をやることは無いんだ。憂佳はもう覚えたかなとか踊れてるかなとか気にすることは二度と無いんだ。もう二度と。いつの間にか曲は止んでいてわたしは泣き崩れて床にへたった。悲しくて悲しくて声も出なくて、誰かに縋りつきたくて腕を伸ばした。掴んでくれたのは憂佳だった。


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そこで夢から醒めた。
額を拭うとすごい汗で、背中もじっとりしてる。
ふぅぅ、と大きく深呼吸をしてから、目蓋の裏までじんわりときて、
夢の中みたいに泣きそうになる。
そんなこと、悲しくなんてなかったはずなのに。
堪えきれずに頬を伝った涙が髪の毛に滲んだ。



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最近憂佳の夢ばっかり見るんだよね。
わたしが言うと紗季は意外そうにへぇ、と相槌を打った。
「いいなー、紗季しばらく会ってないし」
「や…夢だし。違うの、何かやな夢なの」
「どんな?」
どんなって。言葉に詰まって、
鮮やかなクリームを頬張る紗季を見つめる。
甘い誘惑に勝てないのは仕方ない。
でも夢に負けた気がするのは何だか悔しい。
「何かとにかく、やな夢で。もう見たくないんだけど」
どうしたらいいかな、って宙に浮かせるみたいに呟いたけど、紗季は即答した。
「憂佳に会えばいんじゃないの」
「…えー」
想定内のような、予想外のような答えが返ってきて思わず怯む。
それって絶対、夢に、憂佳に負けたようなものだもん。そんなの絶対やだ。
真っ赤なストローを摘んでカラカラと氷を泳がせる。
夢なんて全部わたし自身だって、わかってるから尚更。
キン、と金属の擦れる音。寝かせられたフォーク。
そろそろ時間、と紗季が言った。



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ずいぶん静かなスタジオだった。見覚えのあるような無いようなスタジオで、新曲のMV撮影の真っ最中。モニターを見ながら順番を待つ。今はめいめいのリップシーン。迫るような表情に息を呑む。すごい。呟くと、うん、と横から憂佳の声が聞こえた。ああ、また夢か。夢なのにずいぶんはっきりしてる、憂佳の横顔を見つめた。視線に気付いた憂佳は半笑いでこっちを向いて、はい、と言って膝かけをわたしに分けた。それをたぐり寄せながらわたしは憂佳に、どうして夢に出てくるの、と訊ねた。どうしてって。憂佳は笑う。「夢だもん。花音が憂佳に会いたいんだよ」「ちがうよ」「いいんだよ。おいで」そう言って憂佳はわたしの腕をとった。隣に座ってるのにこれ以上どうやって近付くんだろう。とりあえず腕を掴む憂佳の手を解いて握った。ぎゅう、と掴むとぎゅう、と返される。もう一度ぎゅう、と力を入れるとまた返ってくる。繰り返しながら言葉を交わす。最近あったこと、何てことないくだらないこと。話は尽きない。憂佳はときどき相槌を入れたり話に乗ったり、ときどきつまらなそうにしたり。久しぶりのこの感じ。「憂佳」「なに?」わたしは繋がれた手元を見つめながらぽつりと零す。「また明日も来てくれる?」ほんの少しの間のあと、穏やかな笑いが含まれた声で、いいよ、と憂佳が答えた。


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今日は久しぶりのテレビ収録。局に向かう移動車のなか、緊張からか二期メンバーは珍しくおとなしい。斜め前にはあやちょがひとりで座ってる。隣を見ると憂佳が死んだように寝てる。約束どおり出てきてくれても、寝てちゃ意味無いんだけどな。つまんなくてあやちょに声をかけようとしたら、肩をとんとんと叩かれた。振り返ると同時に頬に指がささった。「引っかかったー」憂佳がけらけらと笑う。「引っかかってあげたの」「へーーそう」指先が頬をつつく。なぜだか泣きそうになった。「憂佳寝ないでよ」「さみしい?」「つまんないから」「彩花ちゃんと替わろっか?」「憂佳が起きててよ」「しょうがないなー」「しょうがなくない」「うん。はい、じゃ何しよっか」そう言って憂佳はふわふわと笑いながら、背もたれに預けてた上半身を起こしてわたしの目線までやってきた。鼻のほくろが、いち、に、さん、し、ご。あれ、増えてる。もう一度数える。いち、に、さん、し、ご。やっぱり五つある。どうしよう、憂佳あんなに増えるの嫌がってたのに。もう一度数える。いち、に、さんし。「ね、かのん、なに?」黙ったまま鼻を見つめてるだけのわたしに、憂佳は恥ずかしそうに眉を歪める。「なんでもない」答えながら念押しでもう一度数えると四つだった。ああよかった。安心したら笑いが漏れて、憂佳はもっと眉を歪めて不安そうな顔をする。「なんだよー」「なんでもないよ」「…寝てやる」「やぁだ」憂佳はひざかけを肩まで上げて寝たふりをはじめる。「ねー」肩をゆすっても答えない。「ゆうか。」「……」「…さみしいよ」言い終わるのと同時くらいに憂佳が顔を上げた。ふ、と目を細めてやわらかく笑う。ああ、憂佳の顔だ。夢じゃなくて、いつもそうだった。わたしが甘えても、憂佳は決して拒んだりしなかった。普段怒らせてばかりいたわたしなのに、こんなときは必ず受け入れてくれた。いつもそうだったのに、なんでわたしは言えなかったんだろ。どうしてもっと言えなかったのかな。本当は、本当は―――。


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ざわざわ、ざわざわと五感が麻痺しそうなほどの喧騒。
入り乱れる人波をすり抜けながら目的のホームへと足早に向かう。
「──んちゃん、見て見てー」
「んー?」
あやちょの声がして、同時に視界の端からにゅっと細長い腕が伸びる。
その指先が示すほうには壁一面に並べられた広告。
「あれ、ほらスマイレージみたい。青とー紫と黄色とー」
「あー」
「ね?ちょうど6色」
並べられた原色の円を目で追う。青と紫と、赤と緑と水色黄色。
「え、足りないじゃんピンクが」
「え?」
「憂佳のピンク…」
「花音ちゃん?」
急に肩を掴まれて、振り返るとあやちょがぎこちない笑顔でわたしを見てる。
肩を包むあやちょの手のはっきりとした感触。
あ、違う。これは現実なんだ。
「…ピンクと黄緑もあったらよかったなって」
「あー。そうだねー」
肩から落ちた手がわたしの手をきゅっと握った。
はぐれないようにって言うみたいにしっかりと掴まれる。
少し前を進んでくあやちょの斜め顔を見る。
残ってくれたこの人に、
同じ未来を選んでくれたあやちょに、心配かけちゃいけないと思った。
ごめんねって、伝わるように指先に祈った。


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ざわざわ、ざわざわと五感が麻痺しそうなほどの喧騒。入り乱れる人波をすり抜けながら目的のホームへと足早に向かう。「花音ちゃん、見て見てー」「んー?」あやちょの声がして、同時に視界の端からにゅっと細長い腕が伸びる。その指先が示すほうには壁一面に並べられた広告。なんかこんな場面前にもあった気がする。「あれ、ほらスマイレージみたい。紫とーピンクとー、」「あー」「ね?ちょうど6色」並べられた原色の円を目で追う。紫とピンクと、赤と緑と水色黄色。「え、足りないじゃん青が」「え?」「あやちょの青…」「だって彩はもう卒業するから」「え?」振り向くとあやちょは泣きそうな、でも優しい笑顔でわたしを見てる。そっか。そうだった。あやちょはもうすぐ。いつの間にか喧騒は止んでわたし達は薄暗いステージの上にいた。「花音ちゃん、二期メンバーのことよろしくね」後ろを見ると二期メンバーが泣きながら並んで立ってる。横を見ると赤い目をした憂佳がまっすぐに立ってる。反対側にはフロアいっぱいの青いサイリウム。照明が思わせぶりにちかちかと切り替わる。こういうのは何度目だろう、何回あってもちっとも慣れない。あやちょの卒業。ずっと一緒にいたあやちょ。ふたりで色んなことを乗り越えてきた。これからもずっと一緒だと思ってた。そう言ってくれた。淋しさで胸が押し潰されそうになって、涙が溢れてくる。視界がぼやけて、慌ててあやちょを探すともう目の前にはいなくて、わたしは声を上げて泣いた。誰もいなくなったレッスン室でひとり、わたしは泣き続けた。ぼやけた視界に憂佳が現れた。よく見えないけど何だか悲しそうな顔をしていて、悲しそうな声で憂佳は言った。「…ゆうかのときは、そんなに泣いてくれなかったのに」悲しくて悲しくてわたしは叫んだ。「だって憂佳はずっといてくれなかったじゃん!!!」ぶつけるみたいに力の限り叫んだ。ぼんやりの中の憂佳は笑ってる。口の端は笑ってるのに泣きそうな顔してる。こんな顔は見たくなかった。「だって、」ちぎれそうな声を発して憂佳は唇を噛みしめる。やめて、その先は聞きたくない。「…かのんは、言ってくれなかった」


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目が覚めるとまだ薄暗く、少しひんやりする。
見慣れない天井はホテルの部屋だ。
携帯で時間を確認するとあと3時間もある。
ひとりで早く目覚めるのはそれなりに淋しくて、
2人部屋だった頃はよく小さなことで憂佳を起こしたりしてたな。
それでも憂佳は怒ったりしないで、
お湯の沸かし方がわからないって言ったときも優しく教えてくれた。
本当は、憂佳がわたしを好きなのはよくわかってた。
でもどうしたらいいのかわからなかった。
ずっと憎らしくて、羨ましくて、そんな気持ちをそのままぶつけてた。
好きに好きを返すのは悔しかったから、
認めたくないことだらけでつらかったから。
なのに憂佳は、怒ったり笑ったりしながらぜんぶ受け止めてくれてた。
それがまたずるくて嫌だった。
いつだってわたしのほうが惨めだった。

だけど嬉しかった。

惨めで悔しくて、それでもわたしを好きでいてくれることが唯一の救いだった。
その唯一をもっと大事にすればよかった。もっと素直になればよかった。
こんなにも後悔するくらいなら。
憂佳がそこにいてくれることで安心できてたのに。
憂佳のいない未来なんて、想像できなかったのに。





吹きつける潮風がくすぐったくて、
目を細めると世界の輪郭が滲んで色だけになる。
真っ青な空にあやちょの肌色が映える。
こんな風にふたりで撮影するなんてのも、
憂佳がいたらきっと無かった。
だけど憂佳のいる未来なんて無くて、
それは憂佳の決めたこと。
憂佳はいつもそう。高校だって、知らないうちにひとりで決めてた。
大事なことはしっかり自分で決めるのが憂佳だった。
それは尊重するよ。でもわたしは、なんか置いてかれた気分だったよ。




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レッスン室のドアは重い。中央部のガラスから部屋の中を覗くと、メンバーが揃ってるのが見えて急いでドアを開ける。おはようございます、とのんびりした挨拶が飛び交うから、少し気が抜けて荷物を放った。憂佳がいない。ああ、また夢と錯覚してるのかも。気をつけなくちゃ。トイレに行きたくてレッスン室を出る。なぜか目の前に憂佳がいた。何だやっぱり夢だったんだ。「おはよ」「おはよ」「早く入んなよ」「ううん。もう憂佳入れないから」「…なんで」「だって、もう辞めたから」「…そうだけど」でも、夢なのに。「花音こそ早く戻りなよ」「でも、」「ほら、はやく」「憂佳どうするの」「憂佳は見てるよ」「見てるの?」「うん。だめ?」「…だめだよ」思わず返したわたしの言葉に憂佳は笑いながら唇を噛みしめた。「そっか。じゃ帰るね」そう言ってすぐに振り返って行ってしまう。まって、と言ったはずなのに言葉が声にならない。まって、憂佳。まって。いくら叫んでも音にならない。憂佳の後ろ姿がどんどん小さくなってく。どうして届かないの。憂佳。憂佳。とうとう視界から憂佳の姿が消えて、わたしは絶望的な気分になった。同時に世界は真っ白になった。色も音も消えた。何も無くて、物音ひとつしない、どこからどこまでが世界なのか、自分の存在すら曖昧に思えてくる。突然、ふっとやわらかい空気を背中に感じる。憂佳だ。振り向くと憂佳は照れたように笑った。わたしは空間を歩いて憂佳の前に、ちょうどいい距離をはかり切れなくて、思ったより近くまで来てしまう。後ずさるのも違うけど、変な距離に落ち着かなくて憂佳の腕に触れた。「ゆうか。」「なに?かのん」「…うちがいてって言ったら、辞めるのやめたの?」あ、久しぶりにうちって言ったかも。憂佳の前だと出ちゃうの何でだろ。「ううん」憂佳は笑って首を振った。やっぱり、そうでしょ。「でも、憂佳は聞きたかったな」憂佳の手が頬に触れて涙を拭った。わたしいつの間に泣いてたんだろ。「…今からじゃ遅い?」「遅くないよ」「遅いよ。だって憂佳は夢だもん。うちが思ってるだけだもん」零れてく涙を、ひと筋ひと筋、憂佳の指先が拾ってく。「夢じゃないよ」わたしの好きな声。あまくて空気に溶けるみたいな。「確かめてみてよ」憂佳の両腕が少し開いて、わたしはそこに身を預ける。憂佳の感触。悔しいけど安心するんだ。それは確かに、わたしの唯一の感触だった。


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夢じゃないよ。
憂佳の言葉が耳の奥に残って、身体を包む感触も消えない。
わたしは寝返りも打たずにもう一度まぶたを閉じた。
じんわりと残る憂佳の感触、だんだんそれだけになっていく。あーあ、と憂佳が呟いた。やだなあ、かのん、もう夢に見てくれなくなるんでしょ。うん、でもゆうかだから。なにそれ。憂佳の笑うのが伝わってくる。肩に息がかかる。くすぐったくて腕を解こうとしたら、まって、と強めに抱きしめられた。夢でいいから言ってよ。…なにを。わかるでしょ?耳元ではっきりと言うから、逃げられなくなる。顔を上げると泣きそうな憂佳の顔があって、わたしは、すきだよ、って小さく呟いてから恥ずかしくて笑った。憂佳も笑った。
ふ、と抱きしめられてる感触が薄くなる。
最後にそんなこと言わせるなんて、やっぱり憂佳はずるい。


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「かのーん」
真っ白な腕を仰いで憂佳がわたしを呼ぶ。
久しぶりに会う憂佳は、髪のかんじもメイクもにおいも、少し変わってて。
夢の中では毎日会ってたのに変な感じ。
「久しぶりだね」
「だねー」
「真野ちゃんの卒コン来ないんだもん花音」
「あーそっかぁ、憂佳来るって言ってたね」
「行ったよー。忘れんなばか」
そう言いながら憂佳はずいぶん嬉しそう。
こういう顔ぜんぶ、わたしのこと好きだからなんだなあって、
受け入れると少し恥ずかしい。
恥ずかしいけどたまには素直になろうかな。
わたしは歩き出す憂佳の手をとって握った。
ふ、と小さく憂佳が笑う。
わたしは何から話そうか頭を巡らせる。
「なんか花音楽しそうだね」
「うん。憂佳に会えたから」
「うそだあ」
憂佳は眉を顰めて、数秒黙ってからわたしに向いて、
「ほんとに?」
「さあどうでしょう」
試すみたいにわたしが笑うと、憂佳は目を細めて考えるふりをする。
でも答えは待たない。まだ恥ずかしいから。
だけど繋いだ手をきゅうっと握ってみた。
握り返す憂佳の手はやさしい強さで、
顔を見ると穏やかな笑顔で、
やっぱり、憂佳はずるいなって思った。
それでも好きだよなんて、言いたくはない内緒の話。








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