『村田書店』




 その通りをふと横切った路地にある古びた本屋は未だ営業している様子を見たことが無くて、それは薄暗くて陽の当たらない下手をすれば猫しか通らないんじゃないかと思うような寂れた裏道にぽつんと立っているのです、私は興味本位でその場所を何度か訪れてみましたが一向にその重たげな木製の引き戸が開け放たれることは無く、ただ明かりの灯されない店内が引き戸の上半分のガラスから窺えるのみでした、書店は入口の扉の上にこれまた木製の看板が取り付けられていてそれにでかでかと『村田書店』と書いてあり、下町の商店街に見られるような店屋と同じくらいの大きさで昭和の民家造りの書店らしいと言えばいかにも書店らしいと言える出で立ちでした。

 大学から駅までの短い道のりの途中にあるその路地には何かと苛々することがあった時なんかに立ち寄ることに決めていました、というと正直そんな事はしょっちゅうなので実際のところ私はかなりの回数その本屋を目にしているわけです、私の事を口うるさい奴だとかお節介だとか囁いている人達が居ることは私自身分かっていてそれでもすぐ口出ししてしまう自分に苛ついたりまたその性分からやたらと心配事が多く、気を落ち着かせる為に私はあの静かで少し鬱めいた路地を横切ることを習慣としていました、最近はというと旧友の愛ちゃんの様子が何だかおかしいことや、同じ大学の亀井絵里がなかなか学校に顔を出さなくなったこと等が酷く私の頭を悩ませていて、今日もそのことばかり考えながら駅まで遠回りになるその通りに足を踏み入れていたのです、古めかしい書店に対する興味と、なかなか進まない大学の課題の良い資料になる書物が置いてあるのではないかという希望的観測から、私は書店の前で立ち止まってみました。

 良く言えば情緒漂う、悪く言えば怪しげなその本屋の様子を疑り深く観察してから、私は更に本屋の入口に近付き引き戸のガラス部分から中を覗いてみました、普段なら窺い知ることの出来なかったその店内を覗くという行為に胸躍らせながら、瞼を細め段々とガラスに顔を近付けるとようやく暗い店内の様子が認識できたのです、どうやら店の奥のカウンターに人が居るようで本棚の合間からその肩が思わせぶりに存在を現し、小さなオレンジの電球が控えめに淡い光を放っています、何だ人が居たのかという安堵と共にそれではなぜ営業をしていないのかという疑問が浮かび私は一人首を傾げ、数歩後ずさりもう何度目か分かりませんがもう一度入口をよく見渡してみました、しかし営業中とか準備中とかはたまた閉店とかそういった店の状況を表すものは一切なく、再び目を凝らして中を覗いてみてもどう見ても書店なのです、奥のカウンターにはきちんとレジが備えてあるし木製の本棚にはずらりと本が並んでいます、そこで私はさっきから微動だにしないカウンターの人物に注意を向けました、左腕の肩から肘までの部分しか見えませんが身に付けているシャツがどう見ても女物であるしかなりの細身であることから意外にも若い女性ではないかと考え、私は思い切って声を掛けてみようと引き戸に手を掛けゆっくりとその入口を開けてみたのです。

 ガラガラと音を立てその重い戸は思ったよりも具合良く開きました、薄暗い路地の弱々しい光が差し込み店の中が少しだけ明るく見えます。
「あら!いらっしゃい」
本棚の合間から顔を出した女性を見て私は安堵の息を吐きました、彼女は本屋の店員にありがちな気難し気な印象などはまるで無く知的で気さくな女性のようで、明るい声で迎えられ安心した私は背筋を伸ばし営業中ですか、と尋ねました、予想していたような埃臭さなども無く陽に当たらず締め切りっぱなしの本屋とは思えないような落ち着いた匂い、良く見れば色鮮やかな背表紙の本たちそれに所々に置かれた可愛らしいアンティークと思われる置物、素敵な店、私はこの書店を気に入りました。
「来たい人だけ来れるのよ、あなたもそうでしょ」
そう言って女の人は微笑みました、不思議な事を言う人です、お店というのは訪れる目的のある人間が訪れるというのが普通ですし私は営業中かと尋ねたのです、けれど特に不快でも無く私がこの店を営業中の本屋だと思って利用することは許されたわけですから、私は遠慮なくコンクリートの床に足を踏み入れました、さてどんな本を探したらいいのでしょう、課題の資料というのは諦めてたまにはゆっくりと読書をするのもいいかもしれない、私は本を手にニコニコと笑いながらカウンターから私を見る彼女に会釈し視線を目の前の本棚に移しました、するとどういうわけかその棚に並ぶ本はどれもこれも背表紙に題名が無いのです、慌てて振り返り後ろの本棚を見ても無し、店内をぐるりと見渡してもどの本にも題名が書かれていません、何もかもが変わったお店なんだ、そう自分の中で処理をして選ぶわけでもなく適当な本を手に取りました。

『高橋愛』
 お店の空気に半ば意識が朦朧としていた私もその本の表紙に書かれた題名を見てはっとし、鈍くなっている頭の回転を元に戻そうと意識を集中してみました、しかしそれを遮るようにカウンターの女性が本の表紙に釘付けになっている私に話し掛けてきたのです。
「本は何でも知ってるよ、読めば何でも見えてくる。知りたいことがあるんでしょ?きっと無駄にはならないと思うから、読んでみたらどうかなぁ」
読んでみたら、読んでみたら愛ちゃんのことがわかると言うのでしょうか、私は自分でもきっと素っ頓狂な表情をしているだろうと思われる顔を彼女に向けました、彼女いいえ店に入った時から直観的にこの人が村田さんだと感じました、村田さんは笑っています、薄い唇は緩やかな弧を描いています、見たところ二十代半ばの村田さんは控えめでつぶらな瞳に小さな鼻その笑みからは悪意は感じられません、けれど彼女の言っている意味を理解するのは現実主義の私には少し難しいことでしょう、私は『高橋愛』という表紙の金文字を指でなぞりそれから出来るだけ離れたところの本棚まで歩きもう一冊本を手に取ってみました、その表紙を見れば今度は『カメ』と書いてあります、カメと言えば一般的にはあの甲羅を背負った緑色の生物を指すかと思いますが私にとってのカメとはまず同級生の亀井絵里が浮かぶわけです、二冊を両手に並べて表紙の文字を眺めると身体が震えました、不思議と恐怖からではなく何故身体が震えたのかも分かりません、しかし私は何となく村田さんの言っていることを理解しようとしていました。

 これを読んで一体何が分かるのでしょう、やはり本ですから文字で淡々と二人の日常が語られているのでしょうか、またはSFやファンタジーの物語のように本を開けば二人の世界に…なんてとても信じられません、こんな物を読んではプライバシーの侵害になってしまうのではないでしょうか、私はただじっと表紙の題名を見つめることしか出来ません、もしこれを読んで愛ちゃんの様子がおかしいことやカメが学校に来ない理由が分かるのならば、村田さんの言うように確かに私には知りたいことがあるのです、愛ちゃんが何か悩んでいることでもあるのなら私は相談に乗ってあげることが出来ますし、ただ彼女が変わってしまったというのなら付き合い方を考えなければいけません、カメが学校に来ないのもただ面倒臭いとかそういった理由なら私は出席するように注意することが出来るけれど、もし何か訳があって来られないのだとしたら。

 私はまたお節介なことをしようとしているのでしょうか、再びカウンターの村田さんを見てみると彼女は相変わらず優しい笑みでこちらを見ています、私は念を押すようにもう一冊、本を選びました。
『私の中のモーニング娘。』
これは、と思った瞬間懐かしい記憶が蘇りました、モーニング娘。、そういえば昔そんな女性アイドルグループがあったのです、中学生の私は彼女達に夢中になっていましたが今となってはもう活動しているのかどうかすら知りません、私は息を飲み三冊を重ねました、カウンターの横に立つとそこには白いテーブルと椅子があります、「読書スペースだから。いいよ」村田さんが座るよう促したので私はテーブルの上に本を置き椅子を引いて腰掛けました、一番上の『高橋愛』と書かれた本を二冊の横に置き表紙に手を掛けます、私は愛ちゃんの力になれるのか一体中に何が書かれているのか、不安と焦燥に駆られながらも私は深呼吸をしてゆっくりと表紙を開くのでした。





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