08 水の彼女







なにこれ、なにこれ
気持ち悪い
いや、気持ちいい

あったかい
安心する

気持ちいい

なんだろうこれ








3年の藤本が妊娠したって。
私は私も知らないような話を人づてに聞いた。中学の時だった。
勿論それは火の無い所に立った煙だったのだけれど、
いつの間にか私は中絶したということに迄なっていた。


それが事実になったのは高校2年の時だった。
流石に噂は立たなかったが、そんな事はどうでもよかった。
私は一つの命を殺した。




「美貴」

知らない声で私を呼ぶこの人は誰だろう。
道端で呼び止められ、振り返った私は眉を顰め目の前の人物を睨みつけた。
「そんな恐い顔しないで」
その人物は両手を胸の辺りに掲げ私を見て笑う。
見たところその女は私と同年代で、やや背が高く、酷く色素の薄い肌をしている。
「藤本美貴、でしょう。会いたかった」
海沿いの潮くさい風をかき分け、近付いてくる。
薄い唇の端を上げ小さく笑むと彼女は、私の手を取ってこう言った。

「私を殺したあなたに会いに来たよ」



  ◇  ◇  ◇




聞けば彼女は、私のお腹にいた水子だという。
そんなばかなことはあるか、と私は一蹴した。
彼女はどう見ても人間だ。そして大人だ。
そもそも水子の霊と言うのは見えないものである。
そして5年も経った今になって現れる筈が無い。
どこまで付いてくるのだろうか彼女は、
後ろからしつこく信じろだのじゃあ信じなくてもいいだのと話し掛けてくる。
こいつは何者だろう。人の傷をえぐって楽しいんだろうか、恐ろしい。
だいたい何でそんなこと知ってんだ。
あいつが言ったんだろうか。
昔彼女が妊娠しちゃってさ、なんて、少し陰を作った顔で零したりするんだろう。
という事はそいつの今の恋人ってとこだろうか、質が悪い。

「ねえ、父親ってどんなだった?」
ほら見ろ、早速聞いてきやがった。
「最低の男だったよ」
「ふぅん。ならどうして愛し合ったの」
愛し合った?違う。
快楽だけだよ、あんなセックスは。
だから子供は産めなかった。

「てゆーかさ」
「ん?」
「どう考えても美貴とあいつの遺伝子で、あんたみたいのは生まれない」
「これは仮の姿だからね。適当にイメージされた姿だよ。声も話し方もそう」
何が仮の姿だよ、変態。なんなのこいつほんとに怖い。
ヘタに美形なものだから余計に怖い。
肌なんか透き通っちゃいそうなくらい白くて、
手は水のように冷たかった。
少しだけぞっとした。
昔は子供を堕ろすことを「水にする」と言ったそうだ。
ただの変態である筈の彼女だけど、
その肌や声の透明感はまるで、水のよう…

こわっ。


「あのさ、あんまりしつこいと警察突き出すよ」
「物騒だね。私は別に、危害を加えようとかそういうつもりじゃないんだけどな」
「じゃあ何なんだよ!」
あまりにイラついて怒鳴り散らすと、彼女はまた唇の端のみで不敵に笑う。
「ごめんね。急いでるなら、またにするよ。さよなら」
そいつは意外にもあっさりと引いた。
透明な手を振って、流れるように歩いて行った。

またにする?また現れるのか、あいつ。

大きく溜息を吐き額を拭うと、珍しく冷や汗をかいていた。
陽射しに照らされ掌がきらきらと光った。



それからあいつはちょくちょく私の前に現れるようになった。
決まって同じ海沿いの道に現れる。本当に不気味。
だってそこは、私が毎日手を合わせている水子地蔵のある道なのだ。
手を合わせ歩き出すと、数分もしないうちに奴が後ろから声を掛けてくる。
ここまでくると、いっそ信じてやってもいい。
認めたくはないが、どうやら奴の声は耳に心地良いから。
何を話すというわけでもないけれどいつも、
その日の天気を誉めたり、私についての質問をしてきたりする。
私はそれには答えないけど、稀にあの男とのことを聞いてくる時があり、
それにだけは答えるようにしている。
そうしてさっさと彼女が満足すればいい。
ストーカーは早く居なくなった方がいい。
そう考えると同時に、彼女がわざわざ私を訪ねてきた目的に、
応えてやりたいと思わないでもなかった。

しかしながら、面倒な事に彼女は私が答えても返事をしないのだ。
聞いているのか確認しようと振り返ると、
彼女はいつも遠い目で海を見ている。
その内振り返るのが面倒になり、私達は並んで歩くようになった。
少しづつ、会話らしい会話をするようにもなった。
美しい彼女に、見とれてしまう事もあった。







あったかい

気持ちいい

あれ何か


気持ち悪い痛い冷たいよ
怖い

やだ

どうして?


殺さないで─




「──!!」


…嫌な夢を見た。

あれはきっと、私の赤ちゃん。
私に殺された私の赤ちゃんだ。

頭がガンガンする。
気持ち悪い。出掛けたくない。
彼女に会いたくない。




「やあ」
鋭い痛みに顔を顰める私に、
今日の彼女は酷く透明に笑った。

「顔色悪いね。どうしたの?」
彼女は心配そうな表情で私の顔を覗き込んだ。
どうして心配なんかするんだろう。
私はあなたを殺したのに。
殺した?ばかばかしい、こいつは私の赤ちゃんなんかじゃない…。


「ねえ、そっち降りてみようよ」
彼女は海の方を向き、ガードレールが切れた岩場の入口を指した。
指して私を振り返ると、道に足を踏み入れる。
私はふらふらとその後を追った。
放っておけばいいのに、どうして付いて行こうとしてるんだろう。
潮の匂いがきつい。
足場の悪い道を、彼女は流れるように楽々と進んでゆく。
目の前の海と、透明な彼女の区別がつかなくなりそうだ。

「こっちこっち」
「待ってよ…速い」
のろのろと後を追う私に、彼女が手を差し出す。
掴むとそれは初めて会った時と変わらず冷たい。
今朝の夢の感覚を思い出す。

「すげー、綺麗…」
岩場の行き止まりにつくと彼女は、海を見て溜息を零す。
私にはそんなに綺麗に見えない。
海より、隣のあなたの方が─


「私、一目惚れだったんだ」

彼女は相変わらず遠い目で海を見つめ、吐き出すように語り始めた。

「街でよく見かけて、何かそれだけで好きになっちゃって」
ああ、頭痛い。水子の設定はどこへ?
「すごい好きで、でも結局知り合うことは出来なくて、何年経っても忘れらんなくて」
頭、痛い…
「それでさ、最近出来た彼氏が、その人のこと何故か知ってて。
 聞いたら元カノだって言うから、もうすっごいムカついてさ。
 何となく付き合った奴だったのに。
 あたしがあんなに想った人が、こんな男と付き合ってたのって。
 しかも妊娠したって?
 ばからしくてそいつ殺しちゃったよ。ねえ、美貴」


水のような彼女は水のような視線を私に向ける。
ああ、何て透明で冷たいんだろう。
その声も瞳もその肌も、この海に溶けて無くなってしまわないだろうか。

「ひどいよ。私ずっと好きだったのにさ。
 くだらない男と付き合って、子供まで出来ちゃって。
 こんなに美貴のこと愛してたのに」

彼女の手が流れる。私の首に巻きつく。

「最後だから、教えてあげる。私の名前、ひとみって言うんだ」

視界がひとみと空だけになる。
涙が滲んで、ますます彼女が水のよう。


ばしゃん、ばしゃばしゃ。

これは水だ。ほんとうの水?それとも、彼女の──



なんてことだろう、溶けて無くなってしまうのは私だった。
もう彼女は見えない。
だんだんと視界が暗くなる。
もう真っ暗だ。
私は水に抱かれている。
冷たいけれど酷く心地いい。


これで終わりなのだろうか。
もう二度と彼女には会えないんだろうか。
そんなのは嫌で、また彼女に会えるなら、私は死んだっていい。
いや、死んだら会えはしないか─
それより、私はもう死んでいるんじゃないか─


ああ、

水のように、透き通って、流れるよな。
包み込むように、息苦しく、冷たい。

水のような彼女に会いたい。


彼女に














なにこれ、なにこれ
気持ち悪い
いや、気持ちいい

あったかい
安心する

気持ちいい

なんだろうこれ


あ、何か



動いてる



ああ、
ああ、ああ、


私、生まれるんだ──




「出た!」
「「やった!」」
「生まれましたよ!」

「愛子!」

「かわいい…」


「何てでかい瞳だ。この子の名前はひとみにしよう」









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