星の数を数えていた。
耳に残る彼女の声に、ぐちゃぐちゃになりそうな思考を止めたくて。
終わりの無いその行為に没頭していた。


「ひとみちゃん」

電話を終えてもすぐ傍で囁かれているよう。

梨華ちゃんが、あんな熱っぽい声で、あたしの名を呼ぶからだ。
何を話したかなんてまるで覚えていない。
ただ時々、思わせぶりにあたしを動揺させるような事を言う。
そんな時は決まって何も答えられず只沈黙が訪れるばかりだ。


わかっているのに。

彼女の首に見たものや、あたしが傷付けたあの人の存在を。
わかっていて、そんな小さな言動に迷わされてしまう。

それとも、彼女が手を引く先に向かってしまおうか。その先には何があるんだろうか。
さっきまでの電話での会話や、なかなか別れを切り出せずに過ごした駅での時間や、あの帰り道。
そんな幸せな時間を、変わらず過ごせることが出来るんだろうか。

星の輝く夜空を見つめながら、ふといつ晴れたんだろうと思う。
駅に着くまでには雨は止まなかったけれど、雑踏のなか切符売場の片隅で、握り締められた梨華ちゃんの手。

「冷たいね」
言われて慌てて振り解こうとしたけれど、逃げられなかった。

そうやって梨華ちゃんはいつだって、あたしを捕えて離さないんだ。その瞳や声や、指で。

もっともっと縛られたい。
本当はもっと声を聞きたいしいつだって梨華ちゃんに会いたい。
あなたばかりの心の中を、見抜いて欲しい。





◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 



「最近、梨華ちゃんと会ってんだって?」
久しぶりに会ったミキティにそう言われてあたしは何となく、誤魔化すような笑いで答えた。
冷房が効いた店内の、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
ハッキリしないあたしの態度に、ミキティは首を傾げて変なの、と呟いた。

夏がやってきた。
窓の外では、陽を照り返すアスファルトがきらきらと光っている。
この強い日差しの中、きっと今日も梨華ちゃんは部活をやっているんだろう。
ボールを打ち返す彼女の姿が浮かんでくる。
3日前に見たばかりのその姿は、割と鮮明に思い出せた。

梨華ちゃんとは頻繁に連絡を取り合うようになった。時々一緒に下校する。
3日前も、彼女が部活を終えるのを待ってご飯を食べに行った。
これ以上近付きたくないなんて思いながら、
流されるように彼女との関係を築いていってしまっている自分を浅ましく思う。

「つーかまさか、付き合ってんの?」
「まさか!」
反射的に首を振って否定した。ミキティは益々訳が分からないといった風に眉を顰める。
梨華ちゃんから色々と聞いているみたいで、あたし達の微妙な関係に苛立っているようだ。
ハッキリしないことが嫌だ、とよくミキティは言う。今日もそう言って不機嫌そうな顔を見せる。
あたしの梨華ちゃんへの気持ちを見透かすように、睨むのだ。

「付き合いたいとか、別にそんなんじゃなくて…」
あたしは言葉を濁した。
この気持ちをどう説明すればいいのかわからず、当ても無く黙り込む。
ミキティはなんだよと悪態をついてコップの中でストローを遊ばせていたが、
少しの沈黙の後あたしの顔を窺うように覗き込んで言った。

「もしかして、アレのせい?」

「アレ?」
「ほら、バレー部のさ」

バレー部の、と言われて思い出すのは一人だけだ。
その人を思い出す度に、胸の奥の方がチクチクと痛む。
会わなくなってからは、出来るだけ思い出さないようにしているのに。
確か最近にも…そうだ、中澤に呼び出された時。

「よっちゃん?」
黙ったままのあたしを心配するようなミキティの声。
確かに、あの事が無ければあたしはきっと堂々と、梨華ちゃんと一緒に居たいと思えたんだろう。
けれどあたしにはきっとそんな資格はもう無いのだ。

「…そんなんじゃないよ」
引きずっているわけじゃない。言い訳にはしたくない。 
また曖昧な返事を返した。
ミキティも、それ以上は何も聞かなかった。




帰りの電車の中、バレー部の先輩だった絵梨香を思い出した。また少しだけ胸が痛んだ。
いつだったか絵梨香は、あたしのことを好きだと言った。同性からの告白に思いの外動揺して、
あたしは確か「冗談でしょ」とか、そんなような事を言った気がする。よく覚えていない。
只、絵梨香の傷付いたような顔ばかりが微かな記憶の中で浮かんでは消える。
窓の外のネオンが現れては消えてゆくように。

ミキティと同じ小学校だったという絵梨香とは、先輩達の中で一番よく話した。
色々な面で妬まれるばかりのあたしに、対等に接してくれる彼女を信頼していた。
それを、告白された瞬間裏切られたように感じてしまったのだ。
あの時あたしの顔には、微かながら侮蔑の表情が浮かんでいたに違いない。
あたしは自分を恥じた。それがどんな感情からであろうと、素直にあたしを慕ってくれていただけなのに。

もう絵梨香に会わせる顔は無いと思った。
拒絶の言葉を返した瞬間、向けられた悲しげな表情が頭から離れない。

とても忘れられそうには、ない。


古びた私鉄の車体が揺れる度に、どこかへ急かされているような気分になる。
どこへ向かえというんだろう。絵梨香には謝る権利すら無いし、
梨華ちゃんとも肩を並べられるような資格は持ち得ない。
「じゃあね」
いつもの鼻声でそう言ってミキティは先に降りて行った。
いつものように、ふざけた調子で窓越しに指を差したりして笑い合った。
小さな痛みに顔を歪めるあたしに、隣に座っていたミキティは気付いていたのだろうか。
きっとあれは寝た振りだったろう。

何故誰もあたしを責めないのだろう。
傷付けてしまった絵梨香ですら、あたしに何も非は無いと笑っていた。
皆があたしを許しても、あたしはあたしを絶対に許せない。

電車を降りると、冷房で冷えた身体に生暖かい空気が纏わりつく。
駅から遠ざかる程足元は暗くなってゆく。
光を求めて空を仰いだ。
曇っているのか真っ暗な夜空が広がるだけだ。

こんなあたしを、月さえ照らさない。

夏の夜の蒸し暑い空気を、蹴り裂くようにして歩いて帰った。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 





絵梨香を思い出した夜、初めて梨華ちゃんからの着信を無視した。
出たくなかったというのもあったし、夜通し泣いていたせいで掛け直す事も出来なかった。
人前では泣く事なんて滅多に無いのに、一人でいると妙に涙脆くて困る。

それから何となく連絡をしないまま四日程経った。
いつの間に当たり前になっていたのだろうか電話やメールのやり取りが、これ程長く途絶えたのは初めてだ。
そうなってみるとまるで梨華ちゃんの存在が夢物語のように思える。
もともと校内で顔を合わせることなんて殆ど無いわけで、
会おうとしなければ姿を見る事は無いし声も聞かない。
そんな日々が続くと段々もしかして、なんて思えてくるけれど、
不思議な事に携帯を見ればきちんと物的証拠が残っている。

彼女の居ない日常は淡々と過ぎてゆき、それでも淋しいと思う資格なんかあたしには無いのだ。

そんな事を考えながら、少しだけ重い足取りで理科棟へ向かう。
提出物を届けに行く為で、呼び出されたわけでもないが気が向かない。
中澤と話すのはやはり苦手だ。
またあの廊下で梨華ちゃんに会えたらいいけれど、
会えたら会えたできっと複雑な気分になるのだろう。


放課後の校舎というのは例外無く静かで、
教室に残る僅かな人影もそれをより一層孤独めいたものにさせる。
やたらと響く自分の足音が耳障りで、歩調を緩めた。
ジワジワと鳴く蝉の声がどこからか聞こえ、日陰の廊下で汗が滲む。
私立だったら空調が効いているだろうに。

少しの期待は裏切られ、あたしは誰にも会わずに教員室前の廊下に辿り着いた。
無意識に安堵の溜め息が漏れ、思わず苦笑する。あたしは何だろう。
これじゃ逃げているみたいだ。

今日は梨華ちゃんに、電話をしよう。忙しくても、何があっても。 

そう決意したけれど、一歩一歩教員室の入り口に近付く度に、
何故だかわからない妙な不安に胸が騒ぐ。
とても静かな筈のこの棟で、微かに聞こえる人の声。
風の音を聞き違えたのかと思ったけれどそうではないようで、
確かに開け放した教員室の入り口から聞こえてくる。
それは中澤ともう一人、恐らく、いや確実に聞き覚えのある声で。


「─だって、ふふ」
「…なんやそれ、ホンマに?─」


自分の耳を疑いたくとも、疑いようが無い。聞き間違える筈が無いのだから、梨華ちゃんの声を。

聞き耳など立てたくはないのに、あたしの聴覚はとても敏感になってしまっていて、
入口のすぐ横で身動きも出来ず固まったまま。
ふざけ笑うような二人の声が脳を刺すように耳に入る。

「─ね、先生」

「なんやあんた、えらいやらしくなったなぁ…」

梨華ちゃんの声が、中澤の声が、脳に刺さる。

「先生、だめ…」



「…アカンの?」
「だって、もう」
「……吉澤、か?」

心臓を斬りつけられたって、こんな痛みは無いだろう。
あたしの名前が出たことも何もかも訳がわからなくて、思考は渦を巻くだけ。
鋭過ぎる痛みに麻痺した五感を引き連れて、立ち止まっていた場所を踏み出した。

「失礼します」
自分でも驚く程に冷たく低い声が発せられる。
あたしの声と姿を認識した二人はすぐに体を離したけれど、
麻痺していても敏感な視覚は一瞬の姿をも捉えてしまった。
梨華ちゃんの腕を掴んだ中澤の手。絡み合うような脚、触れ合いそうな程近付いた顔。
一瞬の映像が視界から離れず、今不自然に距離をとっている二人も、抱き合っているかのように見える。

「提出物、持って来ました」
「あ、ああ…そこ、置いといて」
顔の筋肉だけで精一杯の笑顔を作る。
引き攣った笑いを浮かべながら梨華ちゃんに視線を向けたが、
滑稽な程に動揺している中澤とは対照的に、彼女はとても落ち着き払っていた。
それじゃ、と中澤に軽く会釈をすると、梨華ちゃんはこちらを見ながら入口に向かって歩いて来る。
確かにあたしの顔を見ているようだけど、視線が合っているような気はしない。
その目から何の感情も読み取れないのはあたしが混乱しているからだろうか。

「ひとみちゃん、またね」
何でも無い、というような、とても当たり障りの無い笑顔を見せてあたしの横を過ぎて行った。
それでも少しは動揺していたのか思ったより早足だったようで、
振り向いた時には入口には姿は見えず足音しか聞こえない。
何が出来るわけでもないけれど、
彼女を追いかけなくちゃ、そう思いあたしもすぐ後を追って走り出した。

「吉澤、あの…!」
「失礼します!」
中澤の呼び掛けなんてどうでもよくて、教室を出て走る、走る。
時々曲がり角で見える姿と足音を頼りに、彼女を追う。

理科棟の入り口でようやく追い付くと思い切り彼女の腕を掴んだ。
「梨華ちゃん!」
振り向いた彼女は、泣いていた。


「…ひとみちゃ…」

「なんで泣いてるの?」

あたしはきっと最高に意地の悪い顔をしていたに違いない。
ぐちゃぐちゃの気持ちとは裏腹に冷静な声が響く。
梨華ちゃんは少し怯えたような瞳であたしを見つめる。

初めて見る涙はとても綺麗で、それはとても非現実的な程だ。


「…ねえ、なんで泣いてんの」
「……んで、…って」
梨華ちゃんは必死で涙を拭いながら、嗚咽を繰り返す。何も言わない。
きっと彼女が今言える事なんて何も無いんだろう。
けれどあたしはまたどうして、と訊ねる。彼女の腕を掴む手に力が増す。
怯える姿があたしの加虐嗜好を刺激する。

「ねえ、なんで。言ってよ」
「…嫌…」

震えながら搾り出す梨華ちゃんの声はとても…何ていうか、
例えるなら、官能的で。

ぞくぞくする。

「…抱きしめてもいい?」

「だ、め」

あたしは、ずるい。
梨華ちゃんに何も望まないなんて、所詮は綺麗事だ。
こんなにも彼女が欲しくて仕方が無い。

掴んだままの腕を身体ごと引き寄せて、両腕で包み込んだ。
痩せている身体は思ったよりもずっとやわらかい。梨華ちゃんの匂いがする。
腕の中の彼女は力無く抵抗し、やがて諦めたように動きを止めた。


「…何しようとしてたの?中澤」
「別に、何も…」
「嘘だね」
「わかって、るなら、どうして聞くの」
「もっと泣いて欲しいから」

「すっごい意地悪…っ」

「うん。ゆって?」
「嫌」
「じゃ、キスしてい?」

「…だめ」

口から漏れる拒絶の言葉と、求めるような瞳の色に体が震える。
吸い寄せられるように彼女の唇に自分のそれを重ねた。

喉や耳や頭の奥が、ピリピリと痺れる。

梨華ちゃんの熱い息が、直接唇に触れる。

胸元で抵抗を諦めていた手がもどかしそうにあたしのブラウスの襟を握った。
腕の中の梨華ちゃんの存在に、信じられないくらい満たされた気持ちになる。
あぁあたしは、こんなにも彼女が欲しかった。


「学校だよ…?」
そっと唇を離すと、梨華ちゃんは弱々しくそう言った。涙で潤んだ瞳が揺れて、また一つ滴が零れ落ちる。

「その学校で、中澤と」
「…ぅぅ」
「何しようとしてたのかな」

「…ひどいょ」
「うん。ひどいよ?」

だって、あなたを苛めたい。
もっとあたしに縋って泣いたらいいのに。

抵抗をやめた梨華ちゃんは、あたしの繰り出す攻撃にされるがままで。
唇で、彼女の頬や瞼をついばむように食んでは弄ぶ。
涙の味が、じわりと広がる。

もう何も考えたくない。この腕の中に梨華ちゃんがいたら、もう他には何も要らない。
絡まっていた思考はするすると解けて、頭の奥の奥ではらりと落ちた。
夏の暑さのせいか、梨華ちゃんの匂いなのか、狂おしい程にあたしを欲情させる。

今すぐに、彼女の全てを奪いたい。

「梨華ちゃん、あたし」

繰り返す口付けを止めて彼女を見詰めた。
吸い込まれそうになる、その瞳。
「…ひとみ、ちゃ」


「梨華ちゃんが好き」







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