あれから入部届も提出して、正式に写真部に入部した。
けれど一週間程経ってもまだ、一度も部室に顔を出してはいなかった。

もともとごっちんは名前だけのつもりだったから、二人で部活に行こうなんて流れにはならないし、
かと言ってあたし一人で保田圭に会いに行く勇気はまだ無かった。
しかし名前だけでいいとは言ったものの、やはり顧問としては部活動をして欲しいようだ。
痺れを切らした保田の方から、部活に出ろとの要請があったらしい。
ごっちんに、今日暇だったら部活行こと誘われた。
予定が無いことはなかったけれど、あたしは暇な振りをした。


「あんた達、やっと来たわね」
部室に入るともう保田は来ていて、そう言ってひと睨みされた。二人で愛想笑いを返す。
保田は一人でアルバムの整理かなにかをやっていたようで、机の上は雑然としている。
他に部員は見当たらない。
「ねー、いつも誰も来ないの?」
「今日は部活休みだけど。
 後藤が昨日行くかもって言ってたから、毎日待とうかと思って」
「えぇー?ほんと暇だねぇ?」
「だから、暇じゃないって言ってんでしょうが!」

あたしは二人のやりとりを見ながら椅子に腰を下ろし、目の前に積まれたアルバムを手に取り捲った。
ごっちんは意外にあまり人見知りをしないけど、保田には特に気を許しているみたいだ。
何か怖いけど、変な女だけど、憎めないというか。
待っていてくれたなら来ればよかった、と思った。


「あっ」
思わずページを捲っていた手が止まる。
あたしの声に保田が振り向き、身を乗り出して開かれたページを覗き込んできた。

「ああこれ、良い写真でしょ」

良い写真かどうかはわからない。
ただ、波打つ砂浜に立つその人は、間違いなく先輩で。
真っ白なワンピースを着て笑っている。
被写体があの人だということで、もうこれ以上の写真なんて無いと思う。
あたしはその一枚の写真に完全に見入ってしまった。

「それあたしが撮ったのよ」
真っ青な空に、白く溶ける水平線。陽を浴びて象牙に光る砂。
その中で先輩はとても楽しそうに笑っている。
この笑顔が保田に向けられたものなのかと思うと、悔しくて少しだけ腹が立った。


「どうしたの?気に入った?」
「…これ、石川先輩ですよね」
あたしの答えに保田は妙な顔をして、知ってるの、と静かに言った。
「まぁ、ちょっと」
適当な返事をしてまた写真を見詰める。綺麗だ。
やっぱりこんなに綺麗な人は他に居ない。

保田が何か聞きたそうにしていたけれど、あたしは何となく答えたくなかった。
あたし達の様子をぼーっと眺めていたごっちんに声を掛ける。
「あ、この人知り合いでさ。保田先生のクラスなんだよ」
「へぇー」
渡したアルバムを見てごっちんは、
「かわいー人だね。圭ちゃんお気に入りでしょ」
とからかうように笑った。

どういう意味だろう。
ふとこの間初めて会ったときの保田のせりふを思い出した。
綺麗な顔してて気に入ったとかなんとか、そうかこいつ、
可愛い女の子が好きなんだ。
だったら先輩を気に入らない筈は無い。

「まあね」と笑った保田を見て、ますます腹が立った。
ごっちんに返されたアルバムを、また食い入るように見詰める。
いくら気に入っている生徒だからって、モデルなんか頼むものなんだろうかとまたくだらない事を考える。
先輩はそんなことを引き受ける人なんだろうか。
例えばあたしが写真を撮らせてと言えば、彼女はカメラの前に立ってくれるのだろうか。


「ねえ、石川と…」
保田はどうも何か気になるようで、それとなくあたしの方に視線を向けて聞いてきた。

「なんですか」
「同じ中学?」
「違いますよ」
「地元が一緒とか?」

やけに気にする。
友達の友達です。ただの知り合いです。
そう言えば片付く関係。でも、きっとそんなんじゃない。
それを保田はわかって聞いているんだろう。

「全然。あたしM市なんで」
「石川はY市よね」
「そう言ってましたね」
何も隠さずけれど核心には触れず、探るような質問に素直に答えた。
保田はあたしのことを気に入っているらしいし、さっき認めた通り先輩もお気に入りだというんだから、
あたし達の関係が気になって当然だろう。
ごっちんがそうしたように、あたしもからかい半分に含んだ笑いで保田を見返した。

「…なによ」
「いや、別に」
保田はそれ以上は何も聞かなかった。

それからあたし達は1時間程雑談をして、またその内顔を出すからと約束して帰った。
写真を見に、今度は一人で来てもいいと思った。





◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 
昼休みにコンビニに行った帰り、商業科棟に近い裏門から入るとあの人に会った。

「…あ」
「ひとみちゃん」

あたしは視線を足元に落とした。
やっぱりまだこの人とは、まともに目を合わせる事が出来ない。

「どこ行って来たの?」
先輩はあたしの手元を見てそう言った。ちょっとそこまで、と持っていた袋を掲げて見せる。
何となくバツが悪く苦笑いになってしまう。
先輩は真面目だ。言葉遣いや雰囲気や、ミキティの評価から十分にわかる。
校則にある通りに、休み時間の校外への外出は厳禁よ、なんて言いそうだ。
けれど先輩は、変わらない優しい笑顔でくすりと小さく笑うと、
連れ立っていた数人に先に行っててと促した。
幸いあたしも、一緒にコンビニに行ったごっちんがそのまま帰ってしまい一人だった。

昼休みはあと10分。
5月の強い日差しに、あたしは目を細めた。
暑いですねと言うと、陰になっている渡り廊下に立つ先輩に、腕を引かれた。
初めて触れた先輩の手に、頬が自然と熱くなる。

「ふふ、真っ赤だよ?」
「あ、ああ…焼けたかな…」
日差しの所為にして、空いている手で顔を冷やす。
けれど左腕はまだ掴まれたままで。いくら掌を返してあてがっても、熱は治まらない。
苦し紛れの言い訳を先輩は信じたようで、心配そうに下から覗き込んでくる。
ますます熱が上がりそうで、あたしはすぐに視線を逸らした。
先輩はまた意味ありげな視線であたしを見る。
視界の端でそれを感じながら、あたしは何か話題を探そうと必死に考えた。

「そういえば」
「うん?」
「先輩の担任と話したんです」
先輩はへえ、と大きく頷いて笑った。
「…何か、変わった人ですよね」
あたしの率直な感想に、彼女はまた大きく笑った。
そうそう、と言いながら腹を抱えて笑っている。
保田のお陰で空気が緩んだ気がした。同時にやっぱり変な奴だと思われてるのかと、
自分で言っておいて笑い出しそうになってくる。

「ふふ、そう、何かちょっと変わってるんだよね。でも良い先生よ」
「そうですね」

「中澤先生も、良いひとよね」

同意を求めるように先輩は首を傾げた。今日は痕は無かった。

きりきりと小さく胸が痛む。
自然な流れで出た名前でも、あたしは妙に意識してしまってすぐに返事が出来なかった。
少し間を置いてはいと返したけれど、先輩は特に気にはならなかったようだ。

余計なことばかり考える頭をどうにかしたい。
良い人の意味なんて、沢山あるようでこの場合一つだ。
深読みしている?違う。嫉妬している。
この不安な気持ちも、言い様の無いもやもやとした翳も、きっと嫉妬からだ。


せっかく先輩に会えたのに馬鹿らしいと思い、話題を変えようと口を開くと予鈴が鳴った。
「鳴っちゃったね」
先輩は残念そうにそう言って、あたしの言葉を待った。
本鈴までに教室に戻るならまだ余裕はあるけれど、真面目な先輩のことだ。
あたしは授業なんてどうでもよくて。今はただ先輩ともっと一緒にいたい。


気付くと、自然と離れていた先輩の手が、いつの間にかまた左腕にあった。
それがするすると降りてきて、絡めとるようにあたしの手を握る。


「…先輩、次移動ですか?」
「うん、すぐそこだけど…ひとみちゃんは?」
「あたしは教室だから」

「…でもここからじゃ遠いよね?」
「うん、でも」

それ以上は言えなくて、あたしは口を噤んだ。
先輩も何も言わず、指を絡ませる。
誘ったらいけない。でも、離れたくない。
時間に取り残されたようにあたし達はただ黙って立っていた。


先に口を開いたのは先輩だった。
下を向いていた視線がぶつかり、先輩は声を潜めて言った。

「…さぼっちゃおっか」






◇  ◇  ◇  ◇  ◇





「静かだね?」
「…はい」

誰もいない教室。
あたし達は、移動教室で空いた先輩のクラスに来た。
前にミキティに会いに来た事があったから、ここへ来るのは二度目だ。

「そこが美貴ちゃんの席で、その隣があたし」
先輩は教室のほぼ真ん中に位置する二つの席を指して言った。
「隣なんですね」
「うん、何かねいつも席近いの。またかよって言われる」
ふふ、と笑って先輩は窓際へ歩いてゆく。
悪態をつくミキティの様子が容易に想像できてあたしも少し笑った。

見つからないように、奥の机の陰に並んで腰を降ろした。
窓の外に目をやると、先程と変わらず太陽は強い日差しを放っている。
差し込む光で教室は暖かく、これからあのジメジメとした梅雨がやって来るのが嘘のようだ。



「ね、もしかして写真部入った?」
「え?」
唐突にそう訊ねられ、あたしは一瞬戸惑いながらも頷いた。
写真部に関しては、ごっちんのこともあったしもちろんそれ自体に興味を持ったから入部したのだけれど、
動機に他意が無かったとは言えない。
やましいという程でもないが少しだけ気まずくて、彼女の顔は見ずに話を続けた。

「…何で知ってるんですか?」
「この間先生が、部員が増えたーって喜んでて。
 吉澤って苗字だけ聞いてもしかしたらって思ってたんだけど、やっぱりひとみちゃんだったんだね」
先輩は何だか嬉しそうに笑って言った。
あたしは保田が喜んでいたということに、また一種の罪悪感のようなものまで生まれていた。複雑な気分だ。

入部に至った経緯を簡単に話すと、先輩は相変わらず嬉しそうに笑いながら、丁寧に相槌を打った。
「それで、昨日やっと部活行ったんだけど」
「うん」
「アルバム見てたら先輩の写真がありました」
「うそ、やだあ」
恥ずかしい、と眉を顰めて先輩は、小さく呟いた。

「…やめてって言ったのに。」

この場合、写真を部室のアルバムに入れておいたことだろうか。
先輩の言い方に、何となく保田と彼女の関係が教師と生徒以上のものではと連想させられた。
また深読みしているのかもしれない。どこで撮ったのかと聞くと、
「九十九里浜」

「写真撮りに?そんなとこまで?」
「あ、違うの海には遊びに行ってて、ついでに撮った写真で、
 それがすごく保田先生は気に入っちゃったみたいなんだけど」

「…二人で遊び行ったんですか?」
「ううん、その…保田先生のお友達と」
それ以上聞けば何だか傷付いてしまいそうで、そこで質問をやめておいた。
知りもしない友人も含め保田に嫉妬した。
あたしはこんなに格好悪い人間だったんだろうか。
先輩には先輩の生活や空間がありそれは決してあたしなんかが知らなくてもよい世界で、
ましてや嫉妬なんて。

悟られないように静かに溜め息を吐いた。
保田の人の良い笑顔を思い浮かべるとますます自分の幼稚さがばからしくなり、
胸の前で折っていた膝を投げ出した。

「…写真、すごい綺麗でした」
投げ出した手足と共に緊張もどこかへ行ってしまったようで、
思っていた、たぶん一番伝えたかった言葉がするりと口をついて出た。

何も言わない先輩を横目で見ると、真っ赤になって遠くを見ている。照れてるんだろうか。
きっと何か必死で返事を考えているんだろう。
無言の空気の中あたしは不思議と落ち着いた心持ちで、彼女の言葉を待った。

「…あっ、ごめん、写真がだよね?やだあたし、自分のこと言われたのかと思って…」
返ってきたせりふの何とも間の抜けた内容に、あたしは軽く喉を鳴らして笑った。
それは綺麗な写真だったけれど、被写体が無ければ。
誰が居たからあんなに綺麗な空間が、あんなに綺麗な画が撮れたのかと、
囁いて聞いてみたかったがそんな事は出来る筈も無く。
「もう、笑わないで。だってあたし…」
「いやいや写真じゃなくて、先輩ですよ~」
からかうような口調になってしまい、先輩はますます恥ずかしそうに頬を赤らめて、いいわよと拗ねてみせた。
そんなところも可愛いと思った。
さすがにそれは年上の彼女に言うのは躊躇われて、
あたしは本当ですと一言だけ返して黙り込む。この空気が気持ち良すぎて。

手足を伸ばして背中のロッカーに凭れるあたしを見て、それに倣うように先輩も脚を伸ばした。
「きもちーね」
「そーですね」
顔を見合わせて、くすくすと笑った。二人きりの教室に、小さな笑い声はよく響いた。


それにしてもここは本当に静かで、隣の教室も移動らしく廊下を通る人影も無い。
それだから時折遠くの階段で響く足音や、どこかの教室の授業の声がやたらと耳に衝く。
先輩は会話をしながらもそれらに一々敏感に反応して、小さく肩を震わせた。
その様子がおかしくて何度目かであたしは遂に噴き出してしまった。

「な、なに?」
びっくりしたように振り返る先輩。
彼女の挙動不審な様子に、あたしは気になっていたことを尋ねてみた。
「先輩、まさか、授業さぼったの初めてとか」

「初めてだよ?」
即答だった。
予想通りというか期待通りというか、とにかく思っていた通りの答えにまた笑ってしまいそうになる。
慌てて口元を手で覆ったけれど、にやついた顔に先輩は不満そうな声を出した。
「…何で笑うのぉ?」
「何つーか想像通りってゆーか、いやあの、ほんとに真面目なんだなーって」
「変かなぁ」

「ああそうじゃなくて。凄いですよ、そんだけちゃんとしてられるのって、ほんとに。
 ごめんなさいさぼらしちゃって」
あたしは座ったまま深々と頭を下げた。
「ううん、全然」
そう言って笑う先輩に、少しだけ意地悪したくなったのか、試してみたくなったのか、
身体ごと彼女に向き合いしっかりと視線を合わせて聞いた。

「…どうして」
「え?」

「どうして、今日は…さぼってもいいと思ったの?」
彼女の口元から笑みが消える。

数秒かそれとも数十秒か、短く長い沈黙の後先輩は口を開いた。
「…だって」

左手に暖かいものを感じた。
まっすぐに先輩の顔を見つめる視界にそれは入ってはこないけれど、彼女のたぶん右手だろう。

「……だって?」

「…ひとみちゃんと」
ゆっくりと、息を吐くようにあたしの名前を呼ぶと、それだけで言葉は途切れて。

代わりにあたしの手に重なった先輩のそれが、微かに動いた。指先で甲を撫ぜるように、ゆっくりと。
恥ずかしくて目を逸らしたくても、彼女の潤んだ瞳に縛られてしまう。
仕掛けたあたしの方がいつの間にか呑まれている。

「…せん、ぱ」
「いつまで……、『先輩』…なのかな…」

重なった手から、あたしは溶かされてしまうんじゃないだろうか。そう思った。



「あんたたち、何やってんの!」
唐突に響き渡った声に、あたしも先輩も驚いてドアの方へ目をやった。

一瞬の緊張が走ったが、ドアの横に立つ人物を認識すると、妙に間の抜けた感覚に陥る。保田だった。
「……石川?!…と、吉澤ぁ?」
「あ、あのっえーと…」
慌てて立ち上がった先輩に倣ってあたしもゆっくりと腰を上げた。

保田は黙ったまま寄り添って立つあたし達をじろじろと見回しながら言った。
「…なによ、あんたたちもしかして付き合ってるの?」

「やだ、先生。そういうこと…」
すぐに答えたのは先輩だった。
その否定とも肯定とも取れる答えに、戸惑ったのは保田よりあたしの方だった。
完全に否定してくれるかと思ったのだけれど。
保田とのこんな小さなやりとりが意味を持たないのはわかっているけど。
もともと先輩と、付き合うとかそんな事は望んでいない。
なのに期待をしてしまいそうな自分に寒気がして、あたしの顔を窺う保田に向かってはっきりと伝えた。

「違います。そうゆんじゃないんで」
断ち切るようなあたしの言葉の後に、先輩との時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。

先輩はあたしの方を振り向いて、残念とでも言いたげに眉を下げて笑った。
あたしはもしかして、からかわれてるんだろうか。
何となく悔しくなって、保田に促され教室を出る際に大きな声で言った。

「梨華ちゃん、またね」

早足でその場を去ったけれど、赤くなった彼女の顔は視界の端で確認してやった。
初めて口にしたその名前は、あたしの中で熱を持って強くその存在を主張した。






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